yumi presents.

yoga & days…

~ Information~




人種のサラダボウル  

かつて、ニューヨークは「人種のるつぼ」と呼ばれた。

多種多様な民族が混在して暮らし、それぞれの文化が互いに混じり合って同化し、結果として一つの独特な共通文化を形成していくこの街のあり方が、「るつぼ」に例えられたのである。

 *るつぼとは… 料理とか化学実験とかでさまざまな物を混ぜ合わせ融合させる器のこと。

でも、その呼び方は今は違う、と子どもたちから教えられた。

「人種のサラダボウル」

レタスにトマト・キュウリ・アボカドなどいろいろな野菜が盛られたサラダボウルのように、多彩な人種や民族の固まりが混じり合わず点在する街――それこそがここニューヨークの実像だというわけだ。

確かに、民族の完全なる融合というものはそう簡単に起こりえない。
ニューヨークという多様性に富む街でさえ、人々は相変らず同じ人種同士で固まる傾向にある。

それはほんの少し滞在して気づいたことなんだけれども、例えば居住区。

私の滞在していたハーレムはセントラルパークの北側。
125St駅を境界としてその南には高級住宅街が広がり、まるでオセロのように北と南で世界が全く変わる。

ハーレムそのものもスパニッシュとアフリカンは混じらない。スパニッシュでもドミニカンとプエルトリカンは別のテリトリーを持つ。他にも中国系、ユダヤ系、南アジア系、ギリシャ系、ロシア系、ブラジル系など、いろいろな人びとの集住地区があるようだ。

お互い「認め合っている」というより、「人種的個性をもった人々が混在している」という状態。

地下鉄に乗っているとそれがより顕著に現れる。
ひとつの車両に多数の人種が混在し、もちろん融合することなくそれぞれの個性が際立つ。

そこであらためて、私たち日本人や韓国人などの東洋人の薄さに愕然としたんだけど、東洋人は顔も薄ければ体格も雰囲気も薄い。のぺーっとした印象で他の人種に吸い込まれてもおかしくないほどの透明性・笑。

白人には東洋人よりも目鼻立ちがはっきりしている分強いエネルギーを感じるものの、別に圧倒されるほどのものではなくて。

その最たるものはやはり黒人だ。
もうね、顔の表情から髪の毛から体格から、何から何まで迫力が違う。

大きい小さい太ってる痩せてるそんなの関係なしに、発してるエネルギー、漲る力に呑み込まれそうになる。

とにかくすべてが力強い。
目力、毛髪力、体力。
何と言っても原色が映える肌の色。
すべてが目を奪われる美しさ。
もちろん怖さもあったけど、でも美と存在力においては圧倒的だった。

それらと融合なんてありえない。
確実な境界線を感じた。

それは反発とか差別とかではなくて、「主張」とでもいうべきものか。

日本は単一民族国家だからか、周りに合わせる、和を乱さないことが大切で、それは謙虚に相対する心を持つという日本ならではの美徳なんだけど。

ニューヨークでは自分が中心。
そうしないと混乱してしまう。

自分はどうしたいのか?
人は人、自分は自分、自分を見失わない、人に合わせない、他人に依存しない。
常に自分ありき。

日本人特有の「空気を読む」とかないから、Yes or Noでの判断が問われる。

そのせいか、コミュニケーションを円滑にする適度な言葉がけが盛んだ。

「この街では他人に敬意を払うことがとても大切だ。」

ニューヨークで聞いたこの言葉。
他民族に敬意を払うことは、この街で生きる上で最も重要かもしれない。

例えば、店のドアマンやレジスタッフ、レジに並ぶ人、カフェ店員など、みな初対面にも関わらず笑顔で話しかけてくる。

元気?とか、今日はいい天気だね、とか、あなたの眼鏡とても似合ってる、とかどれも当たり障りのないものだったけど、心が温かくなるような素敵な言葉は嬉しいものだ。

「Thank you」「Excuse me」「Sorry」は日常。
特別なことは何もなく、街は「Thank you」で溢れてる。

これこそ多人種多民族がその独自性を損なうことなくうまくニューヨークで暮らしていくための秘訣なんだと思う。

ここでは絶妙な距離感を持って人々が生活している。

人種どうしが衝突することはなく、距離感を持って決して混じり合うことのないよう、お互いに敬意を持って生活している。サラダボウルのように。



*インドでは人間の業とか欲とか、また命そのものについて深く考えさせられたけど、ニューヨークでは「自分」に目を向ける時間が多かった。自分はどうなの?今の自分は?これからどうしたいの?…自分の立ち位置や価値観、これから進むべき道などが明らかになる土地でした。(私にとってはね。)

category: NY2016